僕が「悪性リンパ腫」と診断されたのは、高校二年から三年に進級する直前の、2月中旬のことでした。
大病発覚の経緯
体調不良を覚えたのはその年の1月中旬頃で、最初は「37.5℃」前後の微熱が出て、学校を休みました。
時期的に、インフルエンザの可能性を考えたのですが、検査結果は陰性。
もしかすると、まだ陽性反応が出るだけの時間が経っていないのかもしれないと思い、熱が下がらなければもう一度検査してもらおうと思っていました。
果たして熱は3日経っても下がらず、5日経っても下がらずという状況でしたが、インフルエンザは何度検査をしても陰性でした。
微熱が続く中、僕の体にある変化が現れました。
胸の辺りが僅かに痛み、息苦しさを覚えるようになったのです。
最初にかかりつけ医に言われたのは、「肺気胸の疑い」でした。
胸部のレントゲン写真を撮ると、胸の辺りには若干の白い靄がかかっています。そして指先に器具を取り付けて体内の酸素数を図ってみると、危険レベルではないものの、正常値より、やや低い結果となりました。
肺に穴が開いているのなら、そういう数値も出るだろうなあくらいに思っていた僕ですが、普通に考えれば肺に穴が開くなんて一大事です。
どんなに小さな穴であろうと、引っくり返ってもおかしくはないくらいです。なんて楽観的な少年なんだ君は!
ところが僕の症状は一向に快復せず、それをかかりつけ医に相談すると、「念のため大きな病院で診てもらいましょう」と診断書を書いてくれました。
そして大きな病院へ向かい、朝の10時から夕方の4時まで(待ち時間が長過ぎたせいではっきり覚えています笑)検査を行いました。
検査といっても、MRIや採血、肺活量を調べるようなこと、くらいだった気がしますが……。
ようやく診察室に呼ばれ、医師と向かい合うと、
「正直よくわからないですね」
と一言。ボールペンのケツで頭を掻いていたような気がしますが、それはたぶん僕のイメージです笑
ところが、その後、
「何か重大な病気があるかもしれないし、気に留めることもないかもしれません。現時点ではっきり申し上げることはできませんが、
命に関わるかもしれません。」
ドラマなんかで、重病や余命を宣告された患者が絶望のあまり涙を流すシーンがフラッシュバックしました。
でも僕は泣きませんでした。というよりも、泣けなかったといったほうが適当です。
涙はすっかり枯渇してしまったかのように出てこなかったのです。
涙だけではありません。
声も出ませんでした。
いつもなら普通にできている「はい」という返事、それだけでなく、この場に相応しいであろう「え……?」という驚きの声すら発することはできませんでした。
ドラマでよく見る、絶望の淵に立たされて涙するのはただの芝居です。本当に絶望した時に涙なんて出ないのです。声も出ません。おちおちセリフなんてしゃべれないんです(もちろん、泣く人も不安の余りまくし立てる人もいるでしょう! 診察直後の僕がリアルタイムで抱いた偏見です笑)
そして医師はさらに大きな病院への紹介状を書きました。
新たに紹介された病院でも、肺気胸の疑いを前提に診察を受けていたので、「呼吸器外科」に通い始めました。
そこで診察を繰り返すうち、担当医師が「肺気胸なのかな……ちょっとリンパが腫れてるような気がしないでもないので、生検を取ってみましょう」と言いました。
僕も、両親も、病気でなければ一番いいけども、病気なら病気で早く「何の病気」か確定させて、治療をしたいと思っていました。
命に関わるかもしれないと言われているのです。
さすがの勇飛少年も楽観的にはいられません。不安で押し潰されそうな日々の中で、「死ぬんかな……」と何度思ったことでしょう。
そして生検を採取するため、手術室へレッツラゴーとなりました。
ベッドに寝かせられ、ブルーシートで覆われると、麻酔が体内に入ってきます。
ちなみに生検は首のリンパを採取したのですが、なんと部分麻酔!!!
頼むから全身麻酔にして~!
と震え上がっている間に手術開始です。
ところが麻酔の効き目が弱く、はたまた体に合わなかったのか、すぐに強烈な痛みに襲われます。
メスで首を切られている感覚もあり、小手のようなものでリンパ節(?)を焼かれている感覚もあり、さらには神経をぐいぐい鷲掴みで引っ張られている感覚もあり、そしてそのどれもが強烈な痛みです。
汗が噴き出しました。手術が終わった後、「こんなに汗だくになる人滅多にいないよ」と言われました。
もちろん、麻酔の効き目が弱いことは手術中にも伝えていて、少しでも痛みを感じるとすぐに麻酔を打ち直してもらっていたのですが、一度痛みを感じてしまうと脳がその痛みを記憶するのか、麻酔が効いていてもとてつもない痛みを感じました。恐怖心も、痛みを増幅させた一因かもしれません。
これだけの手術なのに日帰りで、縫い合わせられた首のせいで、首を90°に曲げた状態でないと皮膚が引っ張られて、またとてつもない痛みです。
車が揺れる度、首がもげそうになりながら帰宅しました。
検査の結果、「悪性リンパ腫」と診断され、診療科が「血液内科」に変わることとなりました。
「癌」と「甲子園」
甲子園については次回の記事で詳しく取り扱いますが、「悪性リンパ腫」を患った時の付録的なエピソードとして、こんなものがあります。
僕が体調を崩し、インフルではなく、肺気胸かもしれないという疑いレベルの時期に、第90回選抜高等学校野球大会の出場校発表がありました。
僕はかかりつけ医に薬を処方され、「もしよくならなかったらまた来てください」と言われており、熱も引いたので学校に復帰したのですが、肺に穴が開いているかもしれないので当然運動などできません。
部活にも行ってはいましたが、隅っこで練習を眺めるだけ。練習補助すらできません。
そしていよいよ胸の痛み、息苦しさがしんどくて、今日帰ったら病院に行こうと思ったまさにその日が、春の甲子園の出場校発表の日だったのです。
春の甲子園の近畿枠は「6」で、前年の秋に近畿大会でベスト4まで勝ち上がった僕たちはいわゆる「甲子園当確」で、校長先生からの「甲子園の出場が決定しました」という報告待ちでした。
微かに雪が降っていました。外野の天然芝が薄っすら白くなっていたのをよく覚えています。
僕たちは学校として初の「甲子園出場」の報せを受け、帽子を投げたり遠くから走ってきてみんなでジャンプしたり、監督を胴上げしたりして、喜びを分かち合いました。
そして僕は帰宅し、かかりつけ医に大きな病院への紹介状を書いてもらったのです。

夢と絶望と
小学二年生で野球を始めた僕の夢は、「プロ野球選手」になることでした。なれるものなら、今でもなりたいくらいです。
そしてプロ野球選手になる前に、「甲子園」に出て活躍する。(できることならチヤホヤされたい笑)
もちろん甲子園は通過点ではなく、1つの大きな夢でした。
僕は試合に出るレギュラーメンバーではありませんでしたが、甲子園出場という夢は叶ったわけです。自宅には甲子園の土もあります。
ところが、甲子園の時期と闘病期間が重なったことで、「甲子園=病気だった」記憶ばかりが残りました。
それから半年かけて壮絶な抗癌剤治療と向き合うわけですが、当然ながら僕はこの瞬間、現役引退となりました。
目の前の甲子園に出ることはできません。なんとか治療して、最後の夏に選手として甲子園を目指すこともできません。
プロ野球選手にも、なれないでしょう……。
僕はすべてを失いました。
これまで野球しかやってこなかったのです。野球以外のことに興味はありませんでした。
将来のことなどまったく考えていません。野球選手か、よくて野球に関わる仕事をするのかなあくらい漠然としたものでした。
夢も希望も失った中、抗癌剤治療と向き合った自分を褒めてやりたいです。
ただ1つ、治療を開始した時の希望があったとすれば、それはやはり「甲子園」でしょう。
主治医の先生は理解のある方で、どうしても甲子園の応援に駆けつけたいと言うと、投薬の日程を調整してくださり、外出許可を得て甲子園に行くことを認めてくださいました。
それだけを希望に、治療を始めた頃は苦しい副作用と向き合うことができたのだと思います。
とはいえ甲子園は、決勝戦まで勝ち上がったとしても大会期間は2週間しかありません。
僕の頑張れる理由はすぐに失われます。
ところが僕は運がよく、病気になったことで新たな「夢」を見つけることができたのです。
というのも、偶然にも僕には文才がありました。(書き始めたきっかけは別で取り上げますが)野球漬けだった毎日から突如として時間ができ、手持ち無沙汰だったところ1時間の舞台脚本を書き、10万字の小説を書き上げてしまいました。
これまで国語の授業以外で小説なんて読んだこともなかったのに。
自分が書ける人間だとわかった僕は、小説家を目指し始めました。
そして最も大きな目標として、10代で病気になって(年齢は関係ないかもしれませんが、若くして大病を患ったからこその感覚があると信じています。)感じたことを発信したいというふうに思ったのです。
はじめは作家として、小説やエッセイの中で書きたいと思っていました。でもそれだと表現に凝ってしまったり、伝えるべきことよりも構成を気にし過ぎてしまったり、発信の妨げとなる邪念のようなものがたくさんありました。
その邪念を振り払えないまま、しかし僕の中で、「病気を乗り越え、新たな夢や目標に向かって頑張っている姿を見せることで、今苦しんでいる誰かの力になりたい」と思っていたがために、あくまで作家としての「闘病記」にこだわってきました。
ですがテレビ局でプレスリリースなどを書くようになって、作家風の凝った文章で表現するよりも、誰にでも「わかりやすい」ストレートな言葉で書いたほうが伝わるのかもしれないと思うようになりました。
この記事は、その初めの一歩です。ここまで来るのに、8年かかりました。
僕はこの8年、ただひたすらに小説を、文章を書き続けました。それは「野球」に取って代わる生き甲斐――大きな大きな夢を得ることができた証です。
すべてを失ったと思ったのに、気づけば想像もしていなかった自分に生まれ変わっていました。
人生、何があるかわからない。あの地獄のような闘病は、決して苦しいだけではなかったのです。


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