今回は野球を離れ、小説家を目指し始めた経緯について書きます。
前回までは病気の発覚や、栄光と挫折といった少し重めのテーマだったのですが、今回は打って変わって明るい記事になります!
「おっと、そんなことが!?」と思わず笑ってしまう人もいるかもしれません。前回までの記事もそうなのですが、楽しく読んでもらえると嬉しいです😁
ユニフォームを脱いで……
と、言いながら最初は少し重めかもしれません笑
すみません……
甲子園を3回戦で敗退した翌月には、早速、春季京都大会が始まりました。
乙訓は春季大会も優勝し、秋春連覇を果たします。近畿大会に出場したものの、こちらは1回戦で滝川第二高校に敗れます。
さて、そんな中僕は絶賛抗癌剤治療中です。
僕の行っていた治療方法はABVD療法という、4種類の薬品を点滴で体内に入れていくものでした。(※現在の抗癌剤治療方法は変わっているかもしれません)
ちょっと薬品名は覚えていないのですが、それぞれが「A」「B」「V」「D」に対応していたような、していなかったような……笑
副作用についても、それぞれの薬品ごとに異なりました。
よく抗癌剤治療の副作用として連想されるのは「吐き気」と「髪の毛が抜け落ちる」というものだと思います。
もちろんありました。
治療の度、強烈な吐き気を催しました。治療が進めば進むほど、髪の毛は抜け落ち、「病人」らしい頭へとなっていきました。
他には「血管痛」という副作用があり、これは薬品が日光に晒されると血管痛が起こるというもので、この薬品の投薬中はカーテンを締め切り、点滴の針が刺さった腕を布団の中にもぐらせます。
点滴袋から管までもカバーが施され、完全遮光の状態での投薬です。
それでも血管痛はゼロではなく、血管が破裂しそうなほどの激痛に襲われます。
対策を施していても強烈な痛みだったから、日光に晒されたらどうなってしまうのか……。考えただけでも恐ろしい。
気付けば皮膚に浮き出る血管は黒くなっていたりも……。
副作用とは別に、投薬中に苦しんだことがあります。
それは薬品が体内に入る瞬間、鼻の奥にせり上がってくる薬品の臭いです。
主治医いわく、若い患者に多いとのことですが、この臭いが強烈で、僕は病院に行くと、似たような薬品の臭いを嗅ぐだけで吐き気を催すようになりました。
投薬された薬品は、尿として体外に排出されます。投薬した分は殆どが尿として出るわけですから、治療中は度々尿意を催します。
ただおしっこするだけなら何の問題もありません。
ですが点滴に繋がれたままトイレに行き、排尿する。
排出された尿は、、、
薬品がそのまま出てくる感じです。
色も臭いも薬品なのです。それでまた気持ち悪くなります。
地獄です。
そうした治療に付随する苦しみを和らげるため、いろいろ工夫を凝らしました。
殊薬品の臭いにおいて最初にうまくいったのは、「ミンティア」を食べることでした。
点滴が体に入ってくるタイミングを見計らい、ミント味のミンティアを口に放り込む。
そうすることで薬品の臭いがミントに打ち消され、事なきを得るという方法です。
しかし今度はミンティアを食べすぎて、また、タイミングがずれた時のミンティアと薬品の交ざった臭いがトラウマになり、この後数年間ミンティアを食べることすらできなくなってしまいました😅
次にうまくいったのはアイスでした。味はチョコレートだったと記憶しています。
試行錯誤を繰り返し、薬品の臭いを打ち消しながら、臭いとの激闘に挑んでいたのです。
また、吐き気と血管痛もきつかったのですが、こちらは必勝法を見つけてからは殆ど悩まされることはありませんでした。
その必勝法とは、
単純に「吐き気止め」を治療前に飲む、というものなのですが、
この吐き気止めがおそらく市販されていない最も強い効力のもので、その薬の副作用が「極度の眠気」でした。
僕は投薬前に吐き気止めを飲み、眠りに就いた頃に副作用が生じ始める。ところが眠っている僕は副作用に悩まされることなく、その日の治療を終えるという方法を確立することに成功したのです。
もちろん、それでも副作用に苦しむことはあったし、起きている時は常に薬品の臭いがあるので、様々な対策が必要でしたが……。
そんな壮絶な抗癌剤治療が2週間に1度のペースで行われました。
治療後2、3日は副作用の吐き気が残って体がしんどいのですが、回復すれば次の治療までに体調を脅かすものはありませんでした。
治療に慣れてくると、投薬の日だけ外来患者として受診して、それ以外の日は自宅で過ごすという方法を取りました。
投薬の日を金曜日に固定してもらえたおかげで、学校にも普通に通うことができ、2週間に1度だけ休んで治療をする日々でした。
食事制限は特になく、僕は好きな料理をたくさん食べていたのですが、運動制限はあります。
当然、部活には参加できないので、体の負担も考えて、部活に顔を出すことはできなくなりました。
リュックサックも野球部のものではなく、市販のものを使い、部活に行く仲間を横目にまっすぐ家に帰るようになりました。
季節は進み夏が近づくと、気温も上昇して、立っているだけでも熱中症になりそうです。
抗癌剤治療の影響で、免疫は落ちています。基本的に外出する時は学校も含めてマスク必須でした。
食事は変わらず摂っていたのですが、体重も10キロほど落ち、夏の大会でスタンドから声を張り上げて応援することは体力的に厳しいものがありました。
僕は春季大会でもそうだったのですが、夏の大会でもチームのジャージ、いわゆる「楽な格好」で野球場に行き、応援席から離れたバックネット裏の日陰から仲間を応援していました。
つまり、
僕が最後にユニフォームに袖を通したのは、甲子園だったのです。
手持ち無沙汰でペンを取る。動機は不純!?
最後の夏は、京都大会の準々決勝で敗退しました。
京都の名門・龍谷大平安に完敗したのです。
これで仲間たちも部活動を引退することになり、これから僕たち三年生は一部の推薦組は別にして、受験へと向かっていきます。
そんな中、高校生活最後の楽しみといえば、「文化祭」です。
この高校最後の文化祭こそ、僕を作家への道に誘った運命の分かれ道となったのです。
乙訓高校では例年、1年生は仮装パフォーマンス、2年生は30分間の小演劇、3年生は45分~1時間の演劇をクラスごとの出し物として披露することになっています。(今はわかりませんが)

髪が抜け落ちてます……
ただ演劇をするだけでなく、クラスごとに上演する演目の絵看板を制作するのも恒例で、演劇の完成度と共にこちらの絵看板の出来栄えも、金賞から銅賞まで表彰されます。
さて、僕はどうしてもステージに立ちたくありませんでした。
引っ込み思案というわけでは決してないですし、抗癌剤で髪の毛が抜け落ちているからステージに立ちたくないというのではありません。
人前で芝居をする、演じるということがとんでもなく嫌なのです。恥ずかしいのです。
勇飛少年は考えました。
どうすればステージに立たなくてよいか。
照明、音響、大道具、裏方の仕事はいくらでもあります。ですが、僕と同じように裏方の仕事を狙っているクラスメイトは大勢います。
それに裏方を勝ち取ったとしても、大道具のように本番までに完成するものであれば、「舞台出れるやん」となる可能性があります。
つまりステージに立つ確率を0%にするには、照明か音響になるしかありません。
でも照明、音響の倍率を考えると、じゃんけんなどという運にこの身を任せるのはあまりに心許ない。
昔から、悪知恵の働く勇飛少年です。あることを思いつきました。
「監督や、舞台監督やればいいんや」
当然、監督をやりたがる人はいません。責任重大だし、舞台のすべてを把握していないといけない。
ただ一方で、「俺、監督やるわ」と立候補しても、「なんでおまえやねん!」と一蹴されるだけです。
そこで僕は「脚本書けば自動的に監督やろ」と思いました。
幸い(?)僕は入院中で執筆のための時間は掃いて捨てるほどあります。
この時はまだ誰にも言わず、虎視眈々とステージの影で暗躍できるよう1時間の演劇の脚本執筆に取り掛かりました。
野球一筋だった僕は脚本なんて書いたこともありません。演劇を観に行ったこともありません。せいぜい、土曜のお昼に放送されている「よしもと新喜劇」を見てお腹を抱えていたくらいです。
でも僕は書きました。
1ヶ月くらいだったでしょうか。
歴史が好きだった僕は、盛唐を舞台に、楊貴妃と玄宗皇帝の破滅を題材に舞台脚本を書きました。
主人公が唐にタイムスリップし、将軍として玄宗を最後まで守りながらも、絶世の美女・楊貴妃に惹かれ、最後は自らの手で楊貴妃に手を掛ける悲恋でした。
僕はこっそり文化委員のクラスメイトに脚本を手渡し、「もしよければ文化祭こんなのどう?」と提案しました。
実際に僕の脚本を読んだ文化委員は、まず僕の才能に驚きました。
そして面白かったといい、ぜひやろうとなりました。担任教諭も「オリジナルのほうが絶対強い!」と言いました。
それから僕は小説へと着手するのですが、それは後ほど、最後に書きます。
ところが、僕の脚本は採用されませんでした。
というのも、演目を最終決定するためのホームルームで提案されたのが僕の脚本と、もう一方は東野圭吾先生の『ナミヤ雑貨店の奇蹟』だったのです。
小説を書き始めていた僕は勉強のためにひたすら小説を読んでおり、特にミステリーを書いていた僕は東野圭吾先生の作品を読み漁っていたのです。
ナミヤ雑貨店も読みました。
とんでもない感動作で、ミステリーではないのですが、伏線回収の仕方がミステリーのそれで、鳥肌ものです。
これは、とてもじゃないけど、東野作品を差し置いて自分の脚本など掛けられないと思いました。
僕は自ら、『ナミヤ雑貨店の奇蹟』にしましょうと言いました。
何人かのクラスメイトは僕の脚本を推してくれましたが、僕のクラスはナミヤ雑貨店を上演することになりました。
ただ、動いてみるもので、僕の文才を認めてくれた文化委員や担任教諭が「監督とか演出は青池君がいいと思う」と言ってくれたので、僕は当初の目論見通り監督に就任することができました。
高校三年の文化祭での僕の役職は以下のものでした。
監督・脚本・演出・大道具・小道具
やはり全体を統括する監督になると、裏方のすべてを監督しなければならず、とんでもない量の仕事をこなすことになりました。
ただ、やりがいがめちゃくちゃあって、本当に楽しかった思い出が残っています。
複雑な物語を舞台上で表現するための、これまた複雑な演出をしかけましたが、演者のみんなが、そして裏方のみんなが、つまりクラスメイト全員の頑張りによって、演劇は大成功しました。
結果、銀賞(金賞のクラスは『レ・ミゼラブル』レミゼに勝てるか!!!)を勝ち取り、選考委員の先生からは演出を非常に褒めていただきました。
入賞すると表彰されるのですが、もちろん主役を務めたクラスメイトに登壇させようとしたのですが、みんなに押し出されるように僕が舞台に立つことに。
芝居じゃないので恥ずかしくはありません。むしろこういうのは大好きです。
僕は賞状をもらい、クラスのみんなと喜びを分かち合ったのでした。

史上最年少芥川賞を志して
文化祭で舞台に掛けられることはありませんでしたが、脚本を書ききったことで、「なんだ、意外と書けるじゃないか」ということを知りました。
思えば幼い頃から甲子園で活躍する自分を想像して野球の応援歌を脳内で再生してみたり、学級日誌で少し凝った言い回しを考えてみたりするのが好きで、よく夢想していたものです。
ただ小説も漫画もあまり読んでこなかったものですから、自分で創作するなんてことは露ほども考えたことはなかったのです。
「1時間の脚本書けたら、小説も書けるんちゃう?」
そんな甘い気持ちで書き始めた小説は、10万字を優に超える”長編小説”として、気付けば僕の目の前に出来上がっていました。
それをクラスメイトに読んでもらい、お世辞かもしれませんが「めっちゃオモロイ。すごい才能やな」と方々から絶賛され、単細胞な僕は物語を紡ぐことの魅力に取り憑かれてしまったのです。
夢は大きく――昔から、「言うのはタダや」と思っていた僕は、たかだか小説を1作書き上げただけでとんでもない目標の旗を掲げます。
史上最年少芥川賞受賞!
当時、というか2026年現在も、芥川賞の最年少受賞者は2004年に受賞された綿矢りささんの19歳です。
20年以上破られていない記録なのですから、凄すぎますよね。
史上最年少芥川賞受賞を志した勇飛少年はこの時まだ17歳。
最年少記録更新まで2年近くあります。
この時の僕は、
小説家なんかおっさんおばはんばっかりやから、若いもんも必要やろ。若くてこんだけ長いの書けるやつがおるってなったらすすすっといけるんちゃうか。。。
愚かです。この上なく愚かです。
そんなにすぐに結果など出るわけがないのですが、己を天才だとばかり思っていた勇飛少年は、能天気に理想の姿だけを見ていたのでした。
ただ、そんな愚かな勇飛少年でも褒められるのは、愚直に書き続けたということです。
継続は力なりとはよく言ったもので、僕は小説を書き始めてから大学を卒業するまでの5年間、1日たりとも執筆を休んだ日はありませんでした。
どんなに気が進まなくても、たとえ1行でもいいから原稿を書くようにしていたのです。
元々自分が書きたくて書いている物語なのですから、1行書いて、5分も続きを考えていると気付けば2時間3時間と書いているものです。
そうして年間5、6本の長編を書き、出来栄えなど気にせずひたすら文学新人賞に応募し続けました。
ちなみに新人賞に挑戦するようになって、芥川賞直木賞が誰でも参加できる文学賞ではないことを知りました。
そもそも僕は東野圭吾さんも村上春樹さんも知らなかったのです。
なかなか芽は出ませんでした。
ですが、ある作品をきっかけに、僕は一気に戦えるという手応えを得ました。
それが大学3年生の時に挑戦した「小説すばる新人賞」で、ピアニストが主人公の青春小説で3次選考まで進んだのです。
倍率は1350分の20くらいまで勝ち上がれたのです。
ミステリー作家の登竜門と言われる江戸川乱歩賞(東野圭吾さんも池井戸潤さんも乱歩賞出身)では1次選考を通過し、
手応えのあった翌年には最終選考の1つ手前である3次選考まで勝ち上がるなど、確かな成長を示したのです。
ですが、現実はそう甘くはありません。
そこからは足踏みの日々が続いています。
1次選考は通るけど、そこからがなかなか……そんな日々を送りながら、働くようになり、執筆時間も減りました。
今や書けない日も珍しくはなく、気がつけば26歳になる年です。
史上最年少芥川賞の夢は無惨にも破れました。
ですが、乱歩賞と小説すばるで3次まで残った「実力者」であることは間違いありません。
諦めきれないし、諦めるわけにはいきません。
僕は病気を患った時、人はいつ死ぬかわからないのだから、生きたいように生きる、夢があるなら追い続けると決めたのです。
普通の人生など、捨てました。
そして何より、作家として名前を上げれば、病気で苦しむ若者たちの希望になれるかもしれない。
そして大作家となって、僕の生き様を伝えていきたい。残していきたい。
そのための手段が「書く」ということでした。
僕は、
人を破滅させるのは中途半端な才能
だと思っています。
でもその才能に賭けられる人間は幸せだとも思うのです。
僕は今も作家を目指しています。あと1歩です。
芥川賞も、もちろん目指しています。
病気を経験したからこそ思うのです。夢があるなら、とことん夢に生きたいと。


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