「神様みたいないい子でした」──太宰治が『人間失格』に残した最後の救い

恥の多い生涯を送ってきました。
自分で小説を書いていると、タイトルと冒頭というのは相当にこだわります。
時には本屋さんに行って、ただひたすら背表紙を眺めることもあります。
魅力的なタイトルがあれば手に取って、
「この小説の書き出しはどんなだろう?」と1ページだけめくるのです。

そんな僕にとってのタイトル、書き出しという点での最高傑作は太宰治の『人間失格』です。異論は認めません(笑)

言わずと知れた、「今更おまえなんかに言われんでも名作なことくらい知っとるわい」と言いたい方が多いかもしれませんが、そういう方は回れ右をしていただければと思います。
ただ、僕は曲がりなりにも文学部文学科を卒業しておりまして、自分で小説を書いているだけでなく、文学研究もしておりましたので、今回は文学論も交えた少し本格的な(参考文献とか引用とかはしません。ごめんなさい)『人間失格』論を綴りたいと思います。

思い立ったのは僕自身が毎年、年末年始に『人間失格』を読むようにしており、去年の暮れに読書をしながら、ふと久しぶりに論文的なものを書こうと思ったからです。
これを機に他の作品の評論も書いていければと思いますので、興味のある方はお付き合いいただければと思います!

一度でも自分で小説を書いたことがある人なら共感してもらえると思いますが、まず「人間失格」という強烈な四字熟語。
これがタイトルになっているだけでインパクトがありますし、人間が読む小説というジャンルの創作物で、読み手である人間と同じ種である「人間」に「失格」の烙印が押されるという究極にネガティブなタイトル。
気になり過ぎますよね……。

そして1ページめくると、(厳密には「はしがき」があって、その一文目は「私は、その男の写真を三葉、見たことがある。」)あの有名な冒頭が書いてあるわけです。

恥の多い生涯を送って来ました。

完璧です。
『人間失格』というタイトルがついた小説の究極の書き出し。なんなら、この冒頭を読むためだけにわざわざ読み直してる感さえあります。

まずはざくっとした「あらすじ」を紹介します。

青森の名家に生まれた大庭葉蔵は空腹を知らず、「食うために働く」とは聞いたことがあるけれど、その実感を覚えたことはなかった。しかし学校から帰ると女中たちが「お腹が空きましたね」と言うので、空腹を感じていないのに言われるがまま間食を食べていた。

それに始まった葉蔵の道化はどんどん深刻化し、本音をひたかくしに隠し、相手が(時にそれは父親であったり、学校の先生だったり、クラスメイトだったり、女性だったり)喜ぶであろうことを微塵も思っていなくとも口にするようになった。

ある時父親の講演会の帰り道で父の愚痴をこぼす者を見かけるが、彼らが我が家にやってくると父の講演内容を礼賛し、その帰路で再び愚痴を口にするところを目撃し、人間の恐ろしさを目の当たりにする。

以来葉蔵は人間同士の諍いを嫌い、遠巻きにするようになるが、その美貌と板についた道化が女性を引きつけ……。

女の家に転がり込み、酒と薬に溺れるヒモ生活を送る。何人もの女性の暮らしと人生を道連れに、やがて自らに「人間失格」の烙印を押す太宰の自伝的小説。

『人間失格』は「はしがき」に始まり、「第一の手記」、「第二の手記」、「第三の手記」、「あとがき」の章に分かれています。

「手記」を書いているのは大庭葉蔵その人ですが、「はしがき」と「あとがき」は大庭葉蔵ではない「私」によって語られます。
ちなみに「私」は「あとがき」を読む限り小説家と思われます。

物語の始まりは「はしがき」の
私は、その男の写真を三葉、見たことがある。
という一文です。
その写真はそれぞれ大庭葉蔵の幼少期、少年期、青年期(実際には二十七、八だが写真に写る男は白髪まみれで四十にも見える)のものです。
「私」は大庭葉蔵のことは知りません。その「私」が、大庭葉蔵の書いた「手記」を読んでいる、というのが『人間失格』の構造です。

つまり語り手(視点人物)が「私(はしがき)」、「葉蔵(手記)」「私(あとがき)」というふうに、メインストーリーが「私」に囲われる枠小説の形になっており、僕は『人間失格』というどうしようもなく愚かな(愚かというより惨めと言ったほうが適当かもしれない)人間の一生が、この「枠小説」という構造によって救われていると断定します。

葉蔵がどれだけ惨めか、下記に羅列します。
・幼少期の性的虐待被害。
・父への恐怖と人間への恐怖。
・素顔をひた隠すことでしか居場所を得られない道化。
・東京に出ても実家の金で遊び回れたが、父の引退に伴い金に窮する。
・そこから借金苦、出会う女性の家に転がり込む放蕩生活を送る。
・人生に行き詰まり、自殺未遂(女性と心中しようとする)を起こす。女性だけ死亡。
・アルコール依存、麻薬中毒になる。
・妻が強姦され、助けることもできず、その現場を遠目に見ている。
・妻との関係を修復できず、睡眠薬で自殺を試みるが失敗。
・精神病院に収監され、廃人、狂人として扱われる。

これだけの問題や闇を抱え、死のうとしても死にきれず、葉蔵の手記の最後は
「自分はことし、二十七になります。白髪がめっきりふえたので、たいていの人から、四十以上に見られます。」
と締め括られます。

救いなどありません。
ですが『人間失格』には「あとがき」が存在します。
その「あとがき」を見てみると、
「十年ほど前に、京橋のお店あてに、そのノートと写真の小包が送られて来て、(中略)空襲の時、ほかのものにまぎれて、これも不思議にたすかって、私はこないだはじめて、全部読んでみて、……」
という会話があります。

これにより、「あとがき」は手記の書かれた時期から少なくとも十年は後の世界ということがわかります。
一晩かけて手記を読んだ「私」は、手記と写真が送られてきたマダムにこう言います。

「僕がこのひとの友人だったら、やっぱり脳病院に連れて行きたくなったかもしれない」

マダムはこう答えます。
「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」

このラストで、大庭葉蔵という人物は救われ、読者である僕たちに強烈な感動を突きつけてくるわけです。

ポイントは、葉蔵自身は自分が救われたことを知らないということです。
手記の最後は、間違いなく絶望のどん底です。普通に生活をしていて、二十七歳の人が「君はどう見ても四十オーバーにしか見えないね」なんて言われたら屈辱です。辛すぎます。

葉蔵の場合、白髪まみれで四十オーバーに見られるまでの半生が壮絶で、それが読者に提示されているだけに、単に「辛かったねえ」の一言で終わらせることはできないほどの悲劇です。

また、この手記を読めば、「私」でなくとも葉蔵のことを異常者(廃人や狂人)と捉えるでしょう。葉蔵その人が自らをそのように書いているのですから、『人間失格』は間違いなく狂人によって書かれた手記なのです。

しかし「あとがき」の最後には狂人・大庭葉蔵をよく知るマダムが「神様みたいないい子でした」と語ります。

これは第三者の力といいますか、葉蔵自身が言っていたら(言うわけはないけど)、興ざめです。
破滅の道を突き進み、人生を共に歩んだ女性の人生を狂わせ、時に女性の命を奪ってしまう愚かな葉蔵のことを、「神様みたいないい子でした」と語るのです。

この一言に『人間失格』のすべてが詰まっています。
道化として周囲を喜ばせ、女に惚れられ、酒に溺れる。そんなめちゃくちゃな人間でありながら、環境下で備わった愛嬌で、葉蔵は誰からも好かれていた。
中学の同級生・竹一が予言した「お前は、きっと、女に惚れられるよ」という言葉は作中に登場する様々な女性に当てはまりますが、「あとがき」で葉蔵を語るマダムの姿がその最たるものなのではないでしょうか。

葉蔵は何も信じられず、孤独に苦しみ続けましたが、実は多くの人から受け入れられ、愛されていたのです。
それを知った読者の胸の内に安心に似た感動が広がるのです。

文学を分析する時、作品の読み方として「作者論」と「作品論」という2つのものがあります。

「作者論」とは、作中に登場する人物(特に主人公)の思想や言動は、作者の思想とほぼ直接的に結びついているという考え方です。
『人間失格』を例に挙げるなら、『人間失格』での大庭葉蔵の言動は作者である太宰治とイコールというものです。

一方「作品論」とは、作品と作者を完全に切り離して読むという考え方です。
「作品論」を用いる場合、『人間失格』の大庭葉蔵の言動を見る時に、作者である太宰の存在はまったく排除して読むわけです。
つまり、太宰がこういう思想を持っているから葉蔵にとあるセリフを言わせているのではなく、作中の葉蔵固有の思想ゆえにそのセリフを発するということです。

長年、文学研究では前者の「作者論」が用いられてきました。ですがロラン・バルトという文学研究者が「作品論」を提唱したことから、現代では「作品論」を主として文学研究が行われています。

注意したいのは、「作品論」だから作者の思想が入っていないということではなく、作者の思想めいたものは入っているかもしれないけれど、作品とは切り離して考えるということです。

ただ、そうだとしても、僕は「作者論」を推奨したいのです。
昨今のエンタメ小説であれば、作品論は大いに成立するでしょう。
こういう設定があって、主人公はこういうキャラクターで……という物語が多いわけですから。

ただ、その中にも作者の思想は随所に散りばめられているはずです。
僕も小説を書く時は主張が偏らないように、自分の本音とは真逆の言動をするキャラクターを作中には登場させますし、むしろ主人公に据える時もあります。
それは作者固有の思想があった上で成立する構造だと思います。

思想といっても過激な言動を指しているわけではありません。
たとえば趣味とか、性癖とか、そういうものをひっくるめて、今回は「思想」という言葉を使っています。

1人例を挙げるなら、東野圭吾大先生。
僕はミステリーを書き始めた時、東野圭吾大先生の『マスカレード・ホテル』を読んで衝撃を受け、以来東野作品を読み漁りました。
勝手ながら師匠と呼ばせていただいています。

東野圭吾の趣味の1つといえば、ウィンタースポーツ(特にスノーボード)です。
スノーボードが前面に押し出された作品も多数ありますが、しれっとスノーボードが登場して、最後まで読むと重大な役割を担っているという作品もあります。

こうした部分に焦点を当てると、三人称多元視点で書かれることの多い現代のエンタメ小説だとしても、作者の思想は随所に散りばめられている可能性が考えられるわけです。

純文学になると、作者の思想はさらに濃いものになってくると思います。
特に文豪と呼ばれる明治から、大正、昭和にかけて活躍した作家においては「作者論」で見るべき作品が多いと考えています。

そもそも『人間失格』は「私小説」というジャンルで、作者の実体験をもとに書かれているので、『人間失格』や同じく私小説である三島由紀夫の『仮面の告白』をベースに「作者論」を推奨するのは少しずるいのかもしれませんが、芥川龍之介の『羅生門』を例に挙げても僕は同じ主張をします。

『羅生門』は万葉集だったか何かの古い文献に残っている小話を複数組み合わせて作られた作品です。
そこに芥川龍之介の化身と思われる人物は登場しません。

ですが「作者論」として『羅生門』を読むのであれば、なぜ芥川は1の話と2の話を組み合わせたのか、芥川は『羅生門』で何を表現しようとしているのかという天才の抱える闇や胸中を考察していくことになります。

正直言うと、文学研究の意義はそこにあると思っています。
もちろん構造分析も重要ですが、僕はそれ以上に作者の想いを考えることに文学研究の面白さがあると思っています。

文豪と呼ばれる天才たちが何を見て何を想い、何を表現しようとしたのか……。
天才ゆえの懊悩はもちろんあるでしょう。
ですが文豪が文豪たる所以は、小説という媒体を以って普遍的な悩みや問題を表現することができ、それを読んだ読者の胸に鮮やかなほど強烈なインパクトを残せるという点に尽きると思うのです。

その最たるものが太宰治の『人間失格』ではないでしょうか。
救いようのない太宰(葉蔵)の人生を赤裸々に描く。その中には、読者一人一人が抱える何かしらの問題や、胸に秘めた問題意識に通ずるものがある。
だからこそ『人間失格』は読み継がれる名作であり問題作だと僕は思うのです。

『人間失格』を書き終えた太宰はまもなく自殺し、作品はその死と共に伝説となりました。
それはセンセーショナルな太宰の人生が、その人生が赤裸々というよりあからさまに描かれた作家性丸出しの一作だからだと僕は思うのです。

何かに取材をして書かれた小説もあります。ですがその小説作品も、作者はなぜその題材に惹かれたのかという点から考察すると、作品の持つ本質的な問題が見えてくるはずです。
もし作中で語り手が取材に対して言及することがあれば、それはもはや作者の声でしょう。

「読み方」というのは人それぞれですが、文学研究においては作者が何を想い、何を表現したくてこの作品を書いたのかを考察することに尽きると僕は思います。

そんな僕は、『人間失格』は単なる破滅の物語ではなく、この小説に、太宰治のある「願い」が込められているのではないかと考えました。

それはやはり、

神様みたいないい子でした

という一文によります。

改めて、少し視点の整理をします。

視点の整理

ここで1つ、『人間失格』の語り手について、ある仮説を立てたいと思います。

『人間失格』は「大庭葉蔵」と「私」という2人の語り手がいますが、これにも意味があるように思います。

太宰には作家としての「太宰治」と、本名である「津島修治」という二つの顔があります。

それぞれ、

「大庭葉蔵」=「太宰治」

「私」=「津島修治」

と当てはめてみると、物語の結末部分で登場する「神様みたいないい子でした」という一文に太宰が込めたある願いを読み取ることができるのです。

太宰が『人間失格』に込めた願い

神様みたいないい子でした、という一文が登場するのは、先に紹介したように「あとがき」の部分で、京橋のマダムの口から語られます。

このセリフをマダムが口にすることに大きな意味があると僕は考えています。

葉蔵の人生を表せと言われれば「酒」と「女」です。

その「女」であるマダムが神様みたいないい子と話すことで、葉蔵の人生は救われます。

視点の整理で書いたように「葉蔵」=「太宰治」とするならば、葉蔵への救いはすなわち太宰への救いでもあるわけです。

もちろん、マダムに「神様みたいないい子」と言わせているのは、作者である太宰です。

ただ、太宰は『人間失格』を書いた後、ほどなくして非業の最期を迎えます。つまり、私小説である『人間失格』の中で、「あとがき」は完全なる虚構であると言えます。

太宰自身はこの世におらず、その光景やセリフを見聞きすることはなかった世界です。太宰の想像の中で生み出された世界が、『人間失格』の「あとがき」には描かれているのです。

そこで作者の太宰はマダムに「神様みたいないい子」というセリフを与えている。これは葉蔵が、何より太宰が周囲から言ってほしかった「救いの言葉」だと考えることができるのではないでしょうか。

人の心に一番響くのは、第三者を通して耳にした言葉だったりします。

『人間失格』の場合、葉蔵はマダムの言葉を聞くことはおそらくないでしょうが、葉蔵の人生を追体験してきた読者には、その言葉が深く刺さるのです。

救いようのない物語で読者に大きな感動を与えるために太宰が用意したのが「枠小説」という構造であり、

「枠小説」だからこそ葉蔵を……太宰治という作家を救うことができたのです。

僕は『人間失格』を読んだ後、「これは太宰治の自叙伝なのか、津島修治の自叙伝なのか……?」と考えさせられました。

なぜなら葉蔵は幼い頃から「道化」を演じてきた人間だから。だとすれば津島修治は‟太宰治”という道化を演じ続け、救いのない人生の中でおどけ続けてきたのではないか。

そこまで踏み込んで、マダムの「神様みたいないい子でした」というセリフを振り返ると、津島修治という人間の背負った豪の深さに慄然としてしまいます。

誰が何と言おうと、『人間失格』は名作です。いや、太宰の死と共に名作を超え、伝説となりました。

もしまだ読んだことがなくて、僕の記事を読んで興味を持った方はもちろん、何度も読んでいるけれど、改めて読みたくなったという方も、

ぜひ『人間失格』を手に取ってみてください。きっと何かを感じるはずです。

それはもしかしたら言葉ではうまく表現できないかもしれませんが、それでいいんです。

『人間失格』はそういう話だと思います。

ぶっ飛んだ人間がぶっ飛んだ小説を書く。それはまさに生き様だと言えるでしょう。
僕は常々、人が惹かれるのはその人の‟生き様”だと思っています。

『人間失格』は、太宰が赤裸々に綴った生き様であり、激動の人生の最後に祈った願いではないでしょうか。

その願いは永遠に語り継がれ、人間失格の烙印を自らに押した太宰は、神となるのです。


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