#5「命は軽い、だからこそ重い」闘病記

強烈なタイトルですよね。

でもこれは、僕が病気になり身を以て感じたことの中で、最も重要なことだと思っています。

講演会では、必ず話すことになる「闘病記」の核心と言っていいでしょう。

勘違いしてほしくないのは、「命は軽い」と書いたことの本質的な意味です。

決して、命を軽んじてもいいなどという意味は含まれていません。

それだけは、お間違いなきようお願いします。

死は常に並走している

病気を宣告された時、特に「命に関わるかもしれない」と告げられた時、僕は初めて死を身近に感じました。

それまでは、死を意識したことなんてこれっぽっちもありませんでした。

死ぬことはおろか、野球ができなくなる、自分が大きな病気を患うなんてことすら考えたことはありません。

ですが現実は残酷です。

ある日突然、「悪性リンパ腫」は足音すら立てず僕の前に現れました。

そして当たり前だと思っていた日常を奪い、それどころか「おまえは死ぬかもしれない」と言うのです。

絶望なんて一言ではとても表現しきれません。

ですが考えてみれば、「死」は常に僕たちと並走しているのです。

道を歩いていれば、交通事故のリスクがあります。電車に乗っていれば、脱線事故やテロ行為に巻き込まれる可能性があります。

家族や恋人と一緒にいても、寝ている間に突然襲われて、命を落とすこともないとは言いきれません。

こうしている今も、いつ巨大地震が起きてもおかしくないし、恐竜が絶滅したみたいに隕石が降ってくるかもしれません。核爆弾が爆発して、人類は滅亡してしまうかもしれません。

さすがに後半は飛躍しすぎた話ですが、どれも絶対にあり得ないとは言えないものです。

身近なものに話を戻すと、たとえば交通事故。

道を歩いていて、後ろから車が突っ込んでくる。

それは予期できないどころか、轢かれて初めて自分に命の危険が迫っていることを知るでしょう。

そして気付いた時にはすでに手遅れ、なんてこともあるのです。

「死」は突然顔を覗かせます。

数秒後、数時間後、数日後に事故に巻き込まれるかもしれない。

病気を宣告されるかもしれない。

それはあまりに唐突で、とても準備などしてはいられません。

でも、歩いている時に「もしかしたら車が突っ込んでくるかもしれない」つまり、生きている以上常に「死」のリスクがべったりと真横に張り付いているということを頭の片隅に置いておいてほしいのです。

ほんの片隅で構いません。

頭ではわかっていても、対応するのは難しいかもしれません。

ですが「死の身近さ」を自覚できているだけで、今生きていることが「当たり前」ではないというふうに思えるのではないでしょうか。

僕の書いていることを読んでも、ピンとこない人は多いかもしれません。

読んで、理解した上で、「なんやそれ」と思う人もいるかもしれません。

そういう人を否定するつもりはありません。

ただ僕は病気になって、「死」の身近さを強烈に突き付けられました。

そして僕は、常に「死」を意識するようになりました。

それは「死にたい」という意味ではなく、常に「死ぬかもしれない」と意識しながら、「もし明日死んでも後悔しないように生きよう」と心掛けることで、毎日を全力で生きるようになったということです。

こちらについては、次回の記事でお話できればと思います。

命は軽い

「死」が身近であるというのは、何も死に追いやられる一方ではありません。

自分が誰かを「死」に追いやってしまう危険性も孕んでいます。

いじめのように重大な問題もありますが、ここでは身近のちょっとしたことに焦点を当てます。

たとえば帰り道、友達とじゃれ合いながら歩いている時に後ろから車が走ってきたら、あなたは簡単に友達の命を奪うことができます。

※以下は簡単に口にしたり想像するべきものではありませんが、僕は病気で死を身近に感じた時にふと悟ったことを正直に書きます。

ポンと突き飛ばせば、友達は車に轢かれてしまいます。

屋上や階段のような高いところで景色を眺めている時、友達の背中を押せば転落し、簡単に命を奪えてしまいます。

あえて言葉を選ばずに言うならば、「命」というものは

吹けば飛ぶほどに軽く、簡単に奪えてしまうものなのです。

ですが人はそんな愚かな行為はしません。

なぜか。

吹けば飛ぶような軽い命だからこそ、大切に扱わなければならないと無意識のうちに考えているからです。

それはもしかすると「道徳」とも呼べるかもしれません。

よく、「命は重い」と耳にします。

なぜ重いのでしょう? 考えたことはありますか?

・死んでしまったら、生き返れないから

・家族や友達が悲しむから

・たった1つしかないから

どれも正しいと思います。

少し穿った見方をしてみると、先程話したように、命は「物理的にはとても軽い」ものになります。

人はこれまでの歴史で、あるいは今も、命を粗末に扱ってきました。

戦争になれば一瞬で大勢の人が死にます。

罪のない人も死にます。

場合によっては人質に取られ、悪人の裁量1つで自分は生かされも殺されもする。

かつては身分によって命が軽んじられた人もいました。

誰しも同じく尊い命を、軽く扱ってきた歴史というものが存在します。

人間は知っているのです。

命は簡単に終わらせることができてしまう、とても軽いものだと。

でも、だからこそ大切に、尊重しなくてはならない「重いもの」でもあると認識しているのです。

命の軽さを知って、その重みを知る

命は軽い、だからこそ重い。

今隣にいる人も、あなたにとってはなんでもないちょっとしたことで死んでしまうかもしれません。

どの程度のことが、その人のキャパシティなのかは誰にもわかりません。

平気そうな顔をしながらも、心では泣いている人がたくさんいます。

苦しんで苦しんで、いっそ楽になりたいと思い、命を絶ってしまうかもしれません。

死ぬのは怖いけど、生きているのが耐えられないくらい辛い。ならもう死んでしまおう、と。

死ねば、辛いことや苦しみから逃れられるから。そして「死ぬ」という行為は、あまりにも呆気なく、簡単に遂行できてしまうから。

※これは個人の体験であって誰かに勧めるものではありませんが、

僕は、抗癌剤治療の最中、何度も「いっそ死んだほうが楽や」と思いました。

治療中の痛みや苦しみはもちろん、抜け落ちていく髪の毛や部活に行けない精神面での苦しみなど、誰も代わってはくれない孤独な戦いに心が蝕まれたのです。

僕は、もしもう一度抗癌剤治療をしなくてはならないと言われたら、あの苦しみを味わうくらいなら、甘んじて死を受け入れようと考えているくらい、抗癌剤治療は過酷なものでした。

これは別の記事で書こうと思っていますが、死に魅せられるほどに辛いものは確実に世の中に存在します。

それは人によっては、いじめかもしれないし、パワハラかもしれません。

そんなことで……と後になって深刻に、重大に受け止めたのでは遅いのです。

「そんなことで……」で消えてしまうほど”軽い”命だからこそ、”丁重”に大切に、温かく扱わなければなりません。

それを念頭に置いて他人と接すれば、自然と相手を尊重し、素敵な人間関係を築いていくことができるのではないでしょうか。

これが、「命は重いもの」と言われてもすんなり飲み込めなかった僕が出した、命の重さの理由です。


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